典座ネット〜お供え膳をつくろう

大切な故人に手作りの精進膳を供えてみませんか

お彼岸の基礎知識

      2017/06/26




◎お彼岸の基礎知識

若い世代のお檀家さん(まあまだ私も若いのですが)と雑談をすると、「お盆」は「ああ、ご先祖様がかえってくるんでしょ?」というくらいは知っている人が多いのですが、「お彼岸」については、言葉自体は知っているもののそれがどういう日なのかはまったく知らない人が最近増えているように思います。
実際、お盆が近づいてくると「和尚さん、そろそろ忙しくなるでしょう」と声をかけてくれる人はたくさんいますが、お彼岸の場合は、実際お盆と同じくらい忙しいのにそう言われることは少ないです。中には「お彼岸中はお寺が忙しいのでまた今度ゆっくり話ましょう」と伝えると「はあ。ところでお彼岸っていつなんですか?」と答える人も少なくありません。

地域性や世代の違いもあるでしょうが、どうもお彼岸はお盆に比べてその詳しい内容が知られていないように思います。

○お彼岸の起源と期間

そこで、まずはお彼岸とはなんなのかについて説明します。

奈良時代、若くして出家し、仏教を深く信仰した早良親王(のちの崇道天皇)は、政争に巻き込まれて流刑に処されることとなり、絶食して無罪を訴えたものの志半ばで無念の死をとげたと伝えられます。その後皇族の病死や疫病、天災などが相次いだため、春と秋それぞれ季節の節目の七日間にその魂を鎮めるために全国の僧侶に読経させたという記録が『日本後紀』に記されています。
「暑さ寒さも彼岸まで」というように春分秋分は季節の変わり目になるため、時期的に強い風や荒れた天候になる場合が多く、奈良時代に僧侶が天災が起きぬよう祈る期間として選ばれたのもうなずけます。

それがやがて世間に広まり、春と秋には死者を供養し善行を行う期間としてお彼岸が定着したといわれます。そのため、主として日本で行われる仏教行事です。

期間はいつなのかというと、春分の日・秋分の日をはさんで前後3日、合計7日間を「お彼岸」と呼び、中間となる春分の日・秋分の日は「中日(「なかび」ではなく「ちゅうにち」)と呼びます。また初日を「彼岸の入り」、終日を「彼岸の明け」とも言います。
春分の日と秋分の日には太陽が真東から昇って真西に沈むため、西のかなたにある極楽浄土を願う気持ちと重なることからこの期間となったという説もあります。

平成24年の春彼岸で言えば 3月17日から23日までがお彼岸で、20日の春分の日が中日(ちゅうにち)です。

○お彼岸の意義と六波羅蜜

「お彼岸」は仏教語で、ストレートにいえば「向こう岸」という意味です。対してこちら側は「此岸(しがん)」とよびます。
一般的には現世を此岸、極楽を彼岸にたとえて、苦しみの多いこの世から、荒波を乗り越えて安らかな向こう岸にたどりつく、と解釈されます。

そして彼岸にわたるために、仏教の基本的な修行法である「六波羅蜜」を実践しましょう、と説かれます。

「六波羅蜜」とは
1 布施(ふせ)   他人にわけ与えることを惜しまない
2 持戒(じかい)  戒律を保ち、してはいけない悪い行いをしない
3 忍辱(にんにく) 困難に堪え忍び、怒りや恨みに流されず、辛抱強くやりとげる
4 精進(しょうじん)怠け心をおこさず、何ごとにも精一杯努力を続ける
5 禅定(ぜんじょう)坐禅により、おだやかで動じない集中した心を持つ
6 智慧(ちえ)   ものごとの道理を正しく深く理解しようとする

地域によっては、中日はお寺にお参りして先祖供養をおこない、他の前後6日間は自分の修行のために上記の6種類の善行を一日一つづつ積む、と説かれることもあります。
「波羅蜜」は「パーラミーター」というインドの言葉を漢字にあてたもので、意味は「修行の完成」です。つまりお彼岸の期間中にはこれら6種の修行法をはじめとして、特に良い行いを積み、その修行によって自分も「彼岸=向こう岸」、つまり極楽浄土へ近づきたい、と願うのです。
そのためにお寺にお参りして仏の教えを聴き、またすでに彼岸に渡っている御先祖様や亡き人の墓参をして供養し、報恩感謝の念を捧げるのです。

お盆もお彼岸もお墓参りをしてお寺に足を運ぶのは同じなのですが、わかりやすくいえば、どちらかというとお盆は亡き人のためにお参りするのが主であることに対し、お彼岸は生きている私たちのための期間、と理解しても良いでしょう。
私たちが仏の教えにより深く触れて学び、彼岸(向こう岸)に渡れるように努力する期間なのです。

○お彼岸の精進料理お供え膳を作りましょう

お盆はどちらかといえば亡くなった方のためという側面が強いことに対し、お彼岸は主に自分の修行のため、ととらえてもよいということですので、手間のかかった精進料理を調え、仏前にお供えし、そして自らもそれをいただくという精進料理の修行を行うには最適な期間だといえます。
ぜひこの特集を読んで、お供えのお膳を調えていただきたいと思います。

基本的なお供え膳の原則は、まずは当サイトの「お盆のお供え膳」をざっと読んで復習してみてください。

お盆と異なるのは、お盆棚や盆提灯、水の子、胡瓜の馬とナスの牛のような独特の飾り付けや小物、お供え物などはお彼岸の場合は特にありません。(地域によってはお彼岸独特の飾り付けに関する風習がある場合もあります)
したがって、一般的にはお仏壇をきれいに掃除し、お仏壇の前にお供え物を用意するということになります。仏壇の前に置く場所がない、という方は「前机」という小型の仏壇専用の台がありますので、それを仏壇の手前において、その上にお膳をお供えします。
前机がない場合はちいさいテーブルにふろしきなどをかぶせて代用しても良いでしょう。

お膳の並べ方ですが、基本的原則通りで、お盆などの時と変わりません。

お彼岸の精進料理お膳
手前に箸、向かって左手側に「ご飯椀」、右手側に「汁椀」、その間に「漬け物皿」
この三種は基本です。忙しい場合はこの三種だけをお供えする方法もあります。
さらに略するならご飯だけ、ということになります。

それプラスおかずをお供えするわけですが、おかずは一品~三品が標準で、最大でも五品くらいが仏膳に載る限度だと思います。
おかずが一品だと一汁一菜、二品なら一汁二菜となり、ともにふだんの食事内容です。 一応もてなしのお膳は一汁三菜からということになるため、たとえばお彼岸の期間中は毎日一汁一菜または一汁二菜のお膳をお供えし、お彼岸の中日には一汁三菜のお膳をお供えすればこれはもう最も丁寧な方法と言って良いと思います。
お仕事の都合などでそれが難しければ、お彼岸の一週間のうちのどれか一日だけ、おかず何品でも良いので手作りの精進料理を作り、お仏壇にお供えすると良いでしょう。

おかずを置く位置は、原則的に一汁三菜の場合は中央、右奥、左奥に配置します。どこにどのお椀を置くかは説明すると長くなるので細かい作法はまた別の機会に紹介したいと思いますが、ある程度任意でかまいません。
本音をいうと、使ううつわの種類により置く場所が変わるため、みなさんのお手元にある仏膳にも種類がいろいろあるでしょうから、今回はあえて細かく指定しない方がわかりやすいと思いますので。
今回は、永平寺流に基づき、左奥に「煮物の平椀」、右奥に「あえもの」(永平寺では「膳皿」に盛りますがこの仏膳揃いには膳皿が無く、「高坏」がそれに相当するため高坏)、中央に「坪」を配置しました。
漆塗りのお膳が無い場合は手持ちの陶器などを使い、お盆にのせてもかまいません。

注意するのはおかずの置き場所よりもむしろお膳の向きで、箸の方(ご飯と漬け物と汁がある方)を仏壇の側に向けるということです。ほとけ様が食べるわけですから、食べる人(亡き人)の方を向けるわけです。向きはお檀家さんで間違えて供えている人がけっこうおられますのでご注意ください。

○なぜお彼岸に精進料理を作るのか

ここまでお彼岸の基本的な意味について説明いたしましたが、現世を此岸、極楽を彼岸にたとえて、苦しみの多いこの世から、荒波を乗り越えて安らかな向こう岸にたどりつくというイメージは、三途の川を渡って向こう岸にある極楽にたどり着くという日本人の宗教観にマッチして、誰にでもわかりやすいたとえだと思います。
一般的なお彼岸の知識としてはそれでよいのですが、今回はせっかくなのでもう少し深く触れてみたいと思います。

お彼岸の一般的な説明を表面的に理解したままでストップしてしまうと、どうしても彼岸=向こう岸がはるか向こうのどこかにあって、現実のこの世とは直接関係ない理想郷のような誤解を受けてしまいますが、曹洞宗の教えではそうは説きません。

曹洞宗では遙か向こうにある彼岸や極楽浄土のような別世界をやみくもに望むのではなく、まずは今生きているこの現実の世の中で、向こう岸のような世界を実現する努力を惜しまない、という立場をとります。

道元禅師は『正法眼蔵』「仏教」の巻で「修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ。彼岸に修行あるがゆえに、修行すれば彼岸到なり。」と説いています。

彼岸にたどり着くことを「到彼岸」というのですが、道元禅師は「彼岸到」、つまりもう彼岸に着いているというのです。ただし「修行すれば」という条件付きですが。

ちょっと難しいかもしれませんが、「修行に専念しているとき、もうすでに現実の今ここが向こう岸なんですよ」、というのです。「もう彼岸に到っている」なんて言われても自分にはここが極楽浄土とは思えない、苦しみと不満に満ちているじゃないか、と思うかもしれません。しかしそれは私たちが煩悩により曇った目でみているからここがすでに彼岸だと気がつかないのです。だからこそ、この世が彼岸であるために、その心の曇り=煩悩を取り除く修行が欠かせないのです。

そしてさらに、「修行」を向こう岸に渡るための「手段」として理解してはならない、とも念を押しています。修行を重ねることで彼岸に到る、というような「手段→目的」というプロセスを経るのではなく、一心に修行するとき、その瞬間がもうすでに彼岸(悟り)なのだ、というのです。
ちょっと哲学的な思考法が必要ですが、これは曹洞宗の教えの根本の一つでもあります。
修行を積めば悟りを得られる、というような考え方は、100円を支払えば缶コーヒーが飲める、というような取引に似ています。確かに現実社会では100円を支払えば間違いなく缶コーヒーを受け取れるのですが、修行の場合はそうとは限りません。一生懸命がんばってものぞむ結果にならないこともありますし、何よりも悟りたい、悟りたいと、結果ばかり考えて行ったのではそれ自体が欲望になってしまう恐れがあります。結果を期待しての行いは正しい修行にはなりません。何の対価も求めず、ただひたすらに善行を積むからこそ良い修行となり、また結果が出なくても、正しき修行をしているとき、そのまま今この世が彼岸になるのです。

ちょっと哲学的なはなしになってきました。
難しかったでしょうか。でも今はわからなくても、その教えを何度も何度も繰り返し拝読して坐禅を続け、毎日のなすべき行いを丁寧に真面目に真剣に積み重ねれば、それが即彼岸の境地なのだと信じることが大切です。

そうした姿勢で、先日紹介した「六波羅蜜」の各項目を行じることが大切です。
できれば一年365日、それを念頭において過ごせれば良いのですが、いきなりはじめからそうもいかない、と言う方はまずお彼岸の期間中だけでも、その教えを保とうと努力するこから始めると良いでしょう。

六波羅蜜を実践すると、特になにかおトクなことがあったり、とりたてて結果がでなくても、なんだか心が落ち着いたり、あるいは嬉しくなったり、充足感を感じたりする、という人が多いようです。
たとえば駅で震災の募金にささやかでも協力したり(布施)、もう目の前の仕事が面倒くさくなってきて疲れたから手抜きしようかとも思ったけれど、やっぱり最後まできちんと丁寧にやり遂げようと思いなおしてもうひとがんばり努力したら良い仕事ができたとか(精進)・・・逆に欲望のおもむくままやりたい放題に行動すると、そのときは一時楽しいような気がしても、結局後で後悔することが多いのではないでしょうか。
六波羅蜜を心がけて生活することで、おのずから欲望を抑えることができ、心の曇りが取れ、自然と心の平安が訪れるのです。

ああやっぱり六波羅蜜の教えっていいものだなあ、と少しでも実感することができたら、継続できるきっかけが生まれると思います。いくら和尚の話を聞いても、他人から一方的に押しつけられたものは長続きしません。
まずはお彼岸の期間中に少しでも六波羅蜜を実践し、自分でその素晴らしさを感じることができたならしめたものです。それを少しづつ日々の暮らしに活かしていければ、文字通り「彼岸到」が現成することでしょう。

○さっそくお供え膳をつくって仏道を実践しよう

お彼岸に精進お供え膳をつくろう

さて、ここまで読んで気がついた方も多いでしょうが、日本では「お彼岸と言えばお墓参り」というイメージが強いのですが、お墓参りだけすれば良いというのではなく、(もちろん何もしないよりお墓参りだけでもした方が良いのは確かですが)お墓参りは正しい行いや善行の中のひとつであり、それだけで終わってしまうのではなく、お墓参りやお寺に足を運んで和尚と話をするのをきっかけにして、より正しい道を歩むよう努力を続けることが大切なのです。

精進料理を実際に作ることで台所でほとけの教えを実践し、食べ物の命、そして自らの命に感謝してお膳を調え、亡き人に感謝の意をこめて、恩返しとしてお供えし、そして自分も慎ましやかにそれをいただくという修行、まさにこのお彼岸に是非つとめて欲しいと思います。

さて、ここまで読んだらさっそく料理をはじめましょう。ここに掲載されているお供え膳はあくまでも一例なので、季節や入手できる食材によって組み合わせや料理を変えたり、その中で一品だけ選んで作ったり、適宜調整してかまいません。とにかく作ってみることです。

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